今回は部落差別について書かせて頂きます。
大本教の2代目に出口聖子という人がいます。
彼女は大本教の四代目教主でした。
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出口 聖子(でぐち きよこ、1935年2月19日 – 2001年4月29日)は、宗教法人大本の四代教主。
昭和10年(1935年)、三代教主出口直日・教主補出口日出麿の三女として出生。三諸齋と結婚。昭和55年(1980年)、英国聖公会大主教座教会カンタベリー大聖堂で三代教主名代として能「羽衣」を舞う。
昭和57年(1982年)、教嗣となる。昭和63年(1988年)、直日の命により教主代行。平成2年(1990年)9月23日、三代教主直日の昇天により道統継承、四代教主となる。
三代教主のそば近くに長く仕え、その指導と影響をつよく受けた。
山野の草花をこよなく愛し、昭和46年(1971年)から平成5年(1993年)まで大本花明山植物園長をつとめた。全国各地を巡回して信徒と親交。折々の挨拶等で信仰の内面充実を強く諭し、信徒の教化指導にあたった。
脳死からの臓器移植や遺伝子組み換え作物などの生命倫理問題に警鐘をならしつづけ、脳死臓器移植反対署名活動では自ら街頭に立って署名を呼びかけ、871,571人の街頭署名を集め厚生省(当時)に提出した。
「花明山(かめやま)その」のペンネームで、植物に関する著書「草木によせて」シリーズを出版している。
平成13年(2001年)4月29日、66歳で死去。姪の出口紅が5代教主となった。
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大本教は京都府亀岡市にも拠点がありましたね。
大本教の開祖は出口なおでしたが、出口なおに従って大本教を広めたのが出口王仁三郎でした。
出口王仁三郎はと組んで、世界紅卍字会を設立し、満州に自らの国を作ろうと画策しましたが、日本の天皇を崇める勢力に弾圧されました。
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大本事件(おおもとじけん)は、新宗教「大本」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った統制[1]。大本弾圧事件とも呼ばれる。1921年(大正10年)に起こった第一次大本事件と、1935年(昭和10年)に起こった第二次大本事件の2つがある[1]。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本は壊滅的打撃を受けた。
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大本事件を契機に、浅野和三郎は心霊化学研究会、谷口雅春は生長の家を設立しました。
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王仁三郎は、中国道院・世界紅卍字会の協力のもとに数人の側近と共に入蒙(満州・蒙古)する。
王仁三郎は、中国道院との提携によって道院の宣伝使としての資格をもっていたので宗教の布教には支障がない。
そこで「まず宗教的に進出するのだ」と語り、宗教的・平和的に蒙古を統一し、東亜連盟実現の基礎を打ち立てたいと考えていた。
しかし、出口宇知磨に渡した手紙には、「ことの成否は天の時なり・・・王仁30年の夢いまやまさに醒めんとす・・・」と記されていた。成功する確率は低いと見ていたのであろう。
「王仁蒙古入記」によると、「蒙古王国の建設よりひいて新疆、チベット、インド、シナの全土を宗教的に統一し、東亜連盟の実行を成就し、ついでロシア、シベリアにその教勢をひろめ、パレスチナのエルサレムに再生のキリストとして現れ、欧米の天地に新宗教的王国を建設し、国祖の使命を完成せん・・・」。
王仁三郎は、蒙古だけでなくさらに西に進軍することを考えていた。この構想に、協力してきた人々もたまげてついていけなくなるのであった。
後日王仁三郎は語っている。
「蒙古から中央アジアをへて太古のエデンの園、太古のエルサレムへの世界の源をたずねにいくつもりだった。
人類文明の源アルメニアについては、わしの『霊界物語』にくわしくあらわしてある。ノアの方舟のひっかかっとる山へも登る気やった。
いまの人類史の始点にさかのぼると、もうひとつまえのムー大陸時代の文明の研究ということがやかましゅうなってくるだろう。馬にのって、くる日もくる日も走りまくった。
一週間ほどして、もうだいぶエルサレムも近づいたやろと地図をみてがっかりした。針で突いたほどもうごいておらん。地球というものはなんと大きなもんやろう」。
関西の一流財界人の集まりである清交社主催の「出口王仁三郎氏にものを聞く会」での答えであった。
王仁三郎は、張作霖の配下でチャハル方面の実力者、盧占魁の兵に守られ、霊界物語(大正10年の第一次大本事件後に王仁三郎が書いた第二の経典)と西王母の衣装(能楽『西王母』の主役が身にまとう衣装。西王母は女の神様で、中国古典に出てくる救世主)を積んだ車を引いて、自身は盧占魁から贈られた白馬にまたがって蒙古草原を進軍して行った。
王仁三郎は、ダライ・ラマだ、ミロクだといって進軍する。各地で「聖者来る」といううわさがひろまり、人々が群れ集まって王仁三郎を拝んだという。
もくろみは、端緒についたかにみえた。
しかし、事態は暗転する。満州の独裁者張作霖は、盧占魁の勢力が拡大することに危機感を募らせ、討伐軍を派遣する。盧占魁は捕らえられ殺される。
王仁三郎は、捕らえられ銃殺一歩手前までいく。あえなく、蒙古王国は潰え去ったのであった。わずか4ヶ月ほどの夢物語であった。しかし、日本ではやんやの喝采が巻き起こったのだった。
下記はRAPT×読者対談〈第106弾〉出口王仁三郎と日本軍による世界征服計画とその失敗。より転載
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このように「出口王仁三郎」は中国の「道院」と結託して、「世界紅卍字会」とともに宗教的な世界帝国を作ろうと構想していました。
で、「紅」は「赤」のことですから、もしや「満州計画」は「秦氏」の計画だったのではないかと思ってしまいがちですが、「出口王仁三郎」は明らかに「出雲族」の人間です。これについては、これまで何度もお話してきた通りです。
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世界紅卍字会も中国の道教の影響を受けていました。中国と関係ないはずがないですね。
しかし、その思想は現代社会にも生きており、生長の家や創価学会が勢力を張る世の中になっています。
話は逸れましたが、王仁についての意味は不死の人という意味もあるそうです。
この垣内さんという人は、出口王仁三郎関係のフォローをしていますので、この推理は間違いないかと思われます。
また、王仁は韓国でも王仁先生という人を尊敬する団体もあり、日本にもあるとか。
出口王仁三郎に影響を受けたと思われる著名人は満州出身者が数多かったですね。
赤塚不二夫・・・
赤塚不二夫は出口王仁三郎に関する著書も残しているので、彼は大本教でほぼ間違いないでしょう。
赤塚不二夫は女装をしたり、タモリとホモ行為に勤しんだり。
しかもこの画像の記事(下記リンク)を書いていたのが、
不二草紙 本日のおススメ 『出口王仁三郎 ”軍国日本”を震憾させた土俗の超能力者』長谷邦夫 フジオプロ (ダイヤモンド社 コミック 世紀の巨人)
山口隆之という富士山麓に住んでいる大本教信者でした。
出口王仁三郎も変性女子という程女装にハマっていました。
LGBTのはしり
話が脇にそれてしまいましたが、満州はもともとどこに所属していたのか。
満州といえば、女真族でその末裔が出口王仁三郎の一派とも言われていますが、私はそれだけじゃ無いのかもと思います。
なので、中国と関係していると思い王仁という用語を調べました。
しかし、流石に王仁という中国語は出てきませんでした。
また、隋朝に王仁恭という軍人が出てきましたが、出口王仁三郎につながるような派手な活躍をしたわけでなく、ただ善政を敷いて、臣民に慕われましたが、最後は賄賂を溜め込んで殺された。
※これも三国志に出てきた姜維の子孫とか?
これだけで、日本に影響を与えるとは考えにくいし、出口王仁三郎の先祖とは考えられませんね。
しかし、答えはウィキペディアに載っていました。
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王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。
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つまり、王仁は中国人で更に漢高帝の末裔。だとすれば、出口王仁三郎がそれなりの人だったということがわかりますね。
この漢高帝が誰かというと、劉邦という人でした。
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劉 邦(りゅう ほう、簡体字: 刘邦、拼音: Liú Bāng)は、前漢の初代皇帝。
沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
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右が劉邦
日本でも横山光輝が項羽と劉邦という漫画を出したように非常にポピュラーな人。
横山光輝は兵庫県神戸市出身で、近隣の芦屋市出身の小池百合子は魔法使いサリーちゃんのコスプレをしました。やはり繋がってますね。
※魔法使いサリーは横山光輝の作品です。
小池百合子 東京都知事
魔法使いサリーも描いています
劉邦は今でいうヤクザの親分(またですか)で、に誘われて、陳勝の乱に触発されて乱を起こしました。
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劉 邦(りゅう ほう、簡体字: 刘邦、拼音: Liú Bāng)は、前漢の初代皇帝。
沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
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任侠生活
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり、店が満席になったと伝えられる。また、この任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。
ある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに発した「奴に取って代わってやるわ!」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。
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誰かに似ている感じがします。私は右翼の親分の笹川良一をイメージしました。
(昭和64年)
当時の帝が誰かと言いますと、秦の始皇帝でした。
Raptブログでも紹介されている通り、秦の始皇帝は水銀を飲む様なキチガイ皇帝でしたね。
「秦氏=ロスチャイルド」は日常的に虐殺と人身供養を行っていた「秦の始皇帝」の末裔です。
また、秦の始皇帝は非子という人から出てきたと言われています。
そんなキチガイ皇帝に対して劉邦は乱を起こしたものの、秦の軍に破れて敗北してしまいます。
張良という名軍師をスカウトし、韓信という軍人が馳せ参じて、劉邦にありとあらゆる献策をしてトントン拍子に成功。
漢という国を立ち上げて、漢の高祖と言われるくらいの偉人になりました。
ヤクザの親分劉邦
昔から、ヤクザが成功して偉人として崇めることをやっていたのでしょう。
この漢の高祖こと劉邦が成功したのも眉唾物の可能性もあるかもしれませんが・・・
やがて漢は衰退し、三国時代になり、三人の人が勢力を争う時代になりました。
中山靖王劉勝の子孫と自称する劉備玄徳という人が現れます。
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劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? – 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝は子と孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った[10]。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。
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色々なゲームのキャラクター、漫画でも登場してますが、やはり福耳みたいな垂れ耳と緑の衣装が特徴的です。
劉備玄徳
色が緑
劉備玄徳も緑
大本教関係者は福耳なのでしょうか?
福耳といっても悪魔耳なんでしょうがね(笑)
大本教の出口汪ともそっくり。
しかも福耳=悪魔耳らしき形
コーエーのゲームで三国志というゲームがあります。
劉備玄徳の国は蜀という国ですが、必ずと言っていいほど緑でした。
劉備は劉邦の末裔ではありませんが、中山靖王劉勝の末裔と言われています。
ちなみに、劉備のライバルの曹操孟徳のいる魏は青、孫権仲謀のいる呉は赤でしたね。
※ただ、史実の曹操孟徳は赤い直垂を身につけており、曹操の軍隊も赤を基調にしていたと言われています。曹操は秦氏の系統かもしれません。
エスペラントといえば緑で、緑の勢力といえば、稲田朋美、小池百合子、エスペラント。
RAPT×読者対談〈第121弾〉清和源氏と日本会議と蝦夷共和国と緑の星。
安倍晋三・稲田朋美をはじめ緑の勢力が「第三次世界大戦」を引き起こそうとしている厳然たる事実。
この三国志と言われる時代も、横山光輝が漫画化し、大ヒットしました。
しかも主人公とされる劉備玄徳は義兄弟の誓い=桃園の義という誓いを行いましたね。
劉備、関羽、張飛の義兄弟達
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桃園の誓い(とうえんのちかい)は、桃園結義(とうえんけつぎ)とも称され、『三国志演義』などの序盤に登場する劉備・関羽・張飛の3人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったという逸話のことである。
これは正史の『三国志』にない逸話であって創作上の話であるとされており、劉備が二人に兄弟のような恩愛をかけ、関羽・張飛は常に劉備の左右に侍して護り、蜀漢建国に際して大いに功績があった、という史実に基づいて作られた逸話である。
「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし。」
念劉備 關羽 張飛 雖然異姓 既結為兄弟 則同心協力 救困扶危 上報國家 下安黎庶 不求同年同月同日生 只願同年同月同日死 皇天后土 實鑒此心 背義忘恩 天人共戮
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桃といえば、古代中国で信仰されていました。
桃園の誓いの後、義勇軍を募って黄巾族の討伐した劉備玄徳ですが、流浪の末、諸葛亮という軍師に出会い、大成功。
蜀という国を建国します。
蜀という文字は虫に目がついたものという意味があるそうで・・
蛇ですかね。このころから悪魔崇拝していたと。
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字源
象形。もとは、「虫」を除いた形で、目を強調した毛虫・芋虫を意味、「虫」を加えることで小動物であることを強調、地名で多用されたため、この意味では「蠋」の字が生まれる。桑の葉などのについて離れないなどの意を含む。白川静は、男性器を備えた雄の動物と解する。
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蛇といえば、聖書でエバを唆して堕落させた悪魔でした。
世界中でこの蛇という悪魔をモチーフにしたものが使用されています。
蛇をイメージした蜀漢という国は息子の劉禅の代で蜀は滅亡してしまいます。
要は劉一族の末裔が王仁という学者であり、
その日本に渡ってきた王仁の子孫が出口王仁三郎ということ。
となると、秦の始皇帝も、曹操も秦氏ですし、孫権も孫氏で秦氏。
さらに、司馬懿の子孫が建国した晋も秦氏かもしれません。
昔から緑の勢力は秦氏と争っていたというわけです。
昔からヤクザとキチガイ官吏が争っていたというわけです。
大本教も秦氏勢力=日本陸軍に潰されましたし。
さて、その大本教ですが、部落差別を作り出しました。
え、部落差別を作り出したのって、徳川家康の士農工商エタヒニンじゃんって?
確かにそれもあるでしょう。
より一層、部落差別を確定化させたのが、大本教です。
部落解放同盟の西光万吉はエスペランサでした。
部落解放同盟の西光万吉
本名は清原一隆
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西光 万吉(さいこう まんきち、1895年4月17日 – 1970年3月20日)は、戦前日本の部落解放・社会運動家、政治運動家、エスペランサ、著述家。本名は清原 一隆。
全国水平社設立の中心人物で、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた。
奈良県御所市の被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。この頃から多くの社会活動家に面会するなどしているが、そのきっかけは、「主義者は部落民を差別しないから」(晩年の述懐)という単純な理由であったといわれる。賀川豊彦の社会主義思想(キリスト思想)、佐野学の共産主義思想などに触発され、全国水平社創設につながった。
労働農民党、第二次共産党に参加したが、三・一五事件で検挙されて投獄、思想転向を迫られた。結局、転向書を提出して仮出獄後は国粋主義に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮した。国家主義の観点から大日本青年党と協同し、天皇制の下で部落意識の解消を図ろうとする「新生運動」を起こした。さらに阪本とともに石川準十郎の大日本国家社会党に入党して国家社会主義運動に加わる。こうした融和主義的な姿勢は「水平社」の頃の思想とは全く相いれないものであった。
第二次世界大戦後は、一転して日本の再軍備に反対し、戦地または貧困地域に非武装集団「和栄隊」を派遣する「不戦和栄」を訴えた[2]。原水爆禁止運動にも加わるなど社会運動にも取り組んだが、部落問題に関わることはなかった。生前に公の場で半生を回顧する機会もなく、画家として余生を送った。
後世の評価には、部落解放運動における西光の水平社宣言がクローズアップされる一方、思想転向後の経歴は黙殺されることも多い。永六輔は1968年頃に芸能史の取材で西光と会っているが、「ひょっとしてあなたは、水平社宣言をお書きになった先生ですか」と永に尋ねられた西光は非常に困惑した顔を見せたという。
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エスペランサとは?キリシタン用語で、希望。望徳。
このエスペランサはどういう意味かというと、すでにお気づきの方もいると思いますが、ポルトガル語で希望という意味。
希望、徳。劉備の名前も玄徳でしたね。
部落といえばこの人。橋下徹。
八尾市安中という部落の出身
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弁護士として
司法修習を経て1997年に弁護士になった橋下は大阪の樺島法律事務所に入る。樺島事務所に入った後、「同和地区に住んでいたけど私は同和じゃなかった。だから、私は同和問題はやりません」と言い、部落解放同盟の朝田善之助派が起こした京都市営住宅の家賃値上げ反対訴訟に参加することを拒否した[11]。
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彼は同和に住んでいたとはっきり明言してますね。
慌てて同和じゃないと訂正していますが、嘘でしょうね。
さらにエスペラント語でも希望と言います。
エスペラントといえば、小池百合子。
この部落解放同盟のマークは荊でした。
部落解放同盟が、部落・エタヒニンの解放に向けて運動を起こしました。
しかし、現在は表面的には衰えたといえ、部落利権は存在しています。
部落出身の橋下徹は政治家を辞めたといえ、影響力を持ち続けていますし、
さらに天皇家とも関係がありましたね。上皇明仁の妻、正田美智子は正田家で館林市の部落出身。
日本の著名人を調べていくと、結構部落出身の人が見受けられます。
ちょっと前までは部落は在日とか、共産党とか言われてましたが、
共産党は部落から外れたようですし、ウトロと呼ばれる部落も今では高齢化が進み、あまり機能していないようです。
他の部落と言われる地域も同じようです。
しかしながら、部落から出て行った人はどうしているのかというと、
政治、文化、経済、学術、芸能に潜り込んでました。
彼らはイルミナティの世界で大成功。
部落みたいなところに住んで権利を主張する必要が無くなりました。
日本のイルミナティを見てみると、ほとんどが大本教か大本に影響を受けた生長の家、創価学会、幸福の科学などのカルト宗教に関係しています。
高木正雄こと朴 正煕に酷似
坂本龍一、三宅洋平、ブラフマンのTOSHILOW
生長の家の稲盛和夫を尊敬
RADIO FISH中田啓彦は生長の家
生長の家のキンコン西野信者
彼女は盛和塾の会員
生長の家谷口清超の孫谷口あかりは酷似
皇族、政界、経済界、ジャニーズ、吉本、芸能界、お笑い、音楽界、スポーツなども大本教、生長の家に汚染されています。
となると、同和利権、部落利権関係者が政界、経済界、芸能界などと深い関わりがあります。
同和、部落利権が大本教、生長の家と深い関係があると言っても過言ではないでしょうか?
結論、
部落差別は大本教が作り出した庶民に対する特権差別
悪魔に裁きを。
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