こんにちは、今日は二回目の記事を投稿いたします。
一昨日と今日こんなツイートをさせてもらいました。
イルミナティの殆どはゴム人間と暴いている?ゴムニダことイチベイという男が、Qanonの一員であり、朝堂院大覚一家であることと、
さゆふらっとまうんどこと平塚正幸が戦国武将平塚正幸の末裔かつ、日魯漁業(マルハニチロ)の創業者平塚常次郎の親戚であることについてツイートしました。
2つ目のツイートの返信に平塚常次郎は河野一郎と繋がっていると書かせてもらいました。
平塚常次郎が河野一郎と繋がっているという元記事はこちらです。
敗戦によって、日本人の漁業活動も大きな打撃を受けることになった。後で詳しく述べるが、日本漁船が操業できる海域は、マッカーサー・ラインで設定された狭い範囲に限られてしまったのである。この措置によって、それまで函館の産業経済と市民生活を支えてきた北洋漁業(露領、母船式、北千島漁業)と樺太・南千島漁業の漁場は失われた。戦時下、北洋漁業を独占していた日魯漁業株式会社では在外資産に限ってみても、損失額の合計は5536万2824円で、そのうち70パーセントがカムチャツカや北千島など漁業現場の資材であった。51パーセントが漁業権、工場権などの無形固定資産で、残りが建物(19パーセント)、機械装置(18パーセント)、漁業用船艇(7パーセント)といったように、事業現場で使用された生産設備であった(岡本信男編『日魯漁業経営史』第1巻)。
引用元:函館市史 北洋漁業の壊滅
もちろん北洋漁場の喪失は日魯漁業という企業の損失だけではなく、いわば日魯漁業の城下町であった函館市にとっての痛手も計り知れないものであった。当時函館市の助役であった葛西民也は「函館の経済界が失った北洋漁業の損失は、当時全財政の四九パーセントと計算された……函館は、北洋漁業の″策源地″であって、物資の集散地でした。つまりそのマージンで生きたところです」と語っている(『函館公海漁業二〇年史』)。
北洋漁業に全投資の99パーセント以上を投じてきた日魯漁業にとって、北洋漁場の喪失は、ほとんど再起不能を思わせる深刻な事態をもたらしたが、戦災で荒廃した国土と後述するとおり狭い近海漁場のなかで、再建策を講ずることは極めて至難の技と考えられていた。その上、平塚常次郎、河野一郎という経営トップ、および創業以来、経営を支えてきた外山源吾、堤清治郎、近江政太郎の首脳陣、新谷俊蔵監査役と合わせて6人の重役が、GHQの公職追放指令により退陣することになり、日魯漁業の再建は一層困難とみられていた。このほか日魯漁業にはソ連に抑留された従業員の帰還といった、解決を迫られる難問を抱えていたのである(前掲『日魯漁業経営史』)。
大正時代に成ると、近代化しつつある日本は海洋進出もすすめていた。
北洋漁業の先駆者として知られる平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、千八百八十一年(明治十四年)北海道函館に生まれる。
平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、安土桃山時代の武将・平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔とされる。
平塚常次郎(ひらつかつねじろう)は、札幌露清語学校でロシア語を学んだ。
常次郎(つねじろう)は北洋の漁場開発を志し、ロシア領カムチャツカ半島に渡ってサケ・マスの漁場調査をおこなう。
千九百五年(明治三十八)、日本はポーツマス条約によってロシア領沿岸での漁業権を獲得する。
常次郎(つねじろう)は堤清六(現・株式会社ニチロの創業者)とともに新潟市に堤商会を設立し、ロシア領海内で操業を開始する。
常次郎(つねじろう)達は、カムチャツカ半島沿岸に工場を建設し、サケ・マス缶詰の輸出にも成功した。
千九百二十一年(大正十年)、常次郎(つねじろう)は日魯漁業(現ニチロ)の常務となり、同社及び太平洋漁業、千島水産などで社長を歴任、北洋漁業の覇権を手中に収める。
しかしその常次郎(つねじろう)の業績も、第二次世界大戦の敗戦により、日魯漁業(現ニチロ)は海外資産(施設・漁場)の全てを失った。
千九百四十六年(昭和二十一年)、常次郎(つねじろう)は第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から衆議院議員に初当選する。
常次郎(つねじろう)は名門・河野氏出自の河野一郎(こうのいちろう)と行動を共にする。
政界に身を置いた常次郎(つねじろう)は、第一次吉田内閣で運輸大臣を務め(北海道出身者として初の入閣)たが、翌千九百四十七年(昭和二十二年)、GHQにより公職追放処分を受ける。
千九百五十一年(昭和二十六年)追放解除後、常次郎(つねじろう)は日魯漁業(現ニチロ)の社長に再度就任する。
千九百五十五年の第二十七回衆議院議員総選挙に、常次郎(つねじろう)は北海道三区から日本民主党公認で立候補し当選、政界にも復帰した。
千九百五十八年(昭和三十三年)には、常次郎(つねじろう)は大日本水産会会長として日ソ漁業交渉代表団団長を務め、日中漁業交渉にも携わった。
千九百七十四年(昭和四十九年)、常次郎(つねじろう)は長寿を全うし九十三歳で没した。
引用元:平塚常次郎(ひらつか つねじろう)皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集
日魯漁業の創業者である平塚常次郎が河野一郎と共にGHQから公職追放されるも、議員として返り咲いていると記載がありました。また、平塚常次郎は戦国武将平塚為広の末裔という噂があります。
この平塚為広は豊臣秀吉、秀吉の死後は豊臣秀頼に仕え、関ケ原の戦いで、石田三成方について、奮戦するも死亡しました。弟は徳川家康に捕らえられるも、釈放されています。
平塚 為広(ひらつか ためひろ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は平九郎、因幡守[1]。豊臣秀吉に馬廻として仕え、のちに美濃国垂井城主となる。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦死した。
前半生
平塚氏は三浦氏の一族で、平塚郷を賜ったことからこれを苗字にしたという[2]。『寛政重修諸家譜』が載せる旗本平塚氏の家譜によれば、三浦為重が「武蔵国平塚」を領したことから平塚を家名にしたという。父は三郎入道無心[1]。
『黒田家譜』によれば、秀吉から勘気を被って浪人となり関東に下っていた「平塚藤蔵」という者が、天正5年(1577年)の秀吉が播磨国佐用城の福原氏攻めた際に、黒田孝高に陣借りをして城攻めに加わり、城から落ち延びようとした福原方の武将福原助就(『黒田家譜』では佐用城主として描かれている)を討ち取る手柄を立てて、再び秀吉に仕えたとする話がある[3]。この平塚藤蔵こそがのちに関が原で討死にした平塚因幡守であるという[3][注釈 1]。
為広は後に秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。文禄4年(1595年)7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年(1598年)、醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加している。また、同年5月には筑前に下向した石田三成に代わって真田信幸の取次も務めている[4]。
関ヶ原の戦い
秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられ垂井城城主となる。同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなった。伏見城攻めでは軍功を挙げている。のちに吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日(9月11日)には東軍の前田利長に備えるために北庄城に入る。8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日(10月9日)に関ヶ原の西南の山中村に着陣。9月14日(10月20日)、吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている[5]。関ヶ原合戦図屏風に描かれた平塚為広。
9月15日(10月21日)の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、裏切った秀秋の部隊を相手にし数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも奮闘したが、山内一豊の家臣樫井太兵衛に討たれた。小早川秀秋の家臣横田小半介に討たれたとも言われる[1]。死ぬ前に吉継に辞世の歌(「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」)を送っている[6]。(大谷吉継は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」と返歌しているが届いたかは不明)
垂井城碑
同合戦で子の庄兵衛も討死したとされる。また、為広と同様に怪力で知られた弟の平塚久賀は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。昭和15年(1940年)9月15日、為広の子孫である平塚定二郎が、為広が討ち死にした藤川の地に「平塚為広の墓碑」を建立した[7]。
子孫
引用元:平塚為広 Wikipedia
嫡男・平塚左馬助(平塚為景?)は大坂夏の陣にも大坂豊臣方として参加、若江の戦いで戦死している。
弟とされる平塚久賀の系統は紀州藩に仕えた。久賀の跡を継いだ平塚重近は為広の子という。女性運動家の平塚らいてうは紀州藩平塚家の末裔にあたっており、関ヶ原の「平塚為広の墓碑」の建立にも関わっている。また、紀州藩平塚家の支流には幕府旗本となった家があり、ここから徳川家斉側室の於万の方(勢真院)を出している(後述)。
江戸時代中期に成立した『明良洪範』は、為広の娘についてのエピソードを載せる。関ケ原の合戦後、為広の娘は京都に潜伏していたが、京都所司代板倉勝重に探知され、男児2人を乳母に託して逃して自らは逮捕に応じた。しかし、父に劣らぬ大力で知られた彼女は、護送の途中に隠し持っていた鉄棒で与力や同心を殺傷し、馬に乗って逃走したという[8][9]。
実業家・政治家で運輸大臣を務めた平塚常次郎は、平塚為広の末裔という。
また、ウィキにもある通り、昭和15年に為広の子孫である平塚 定二 郎が「平塚為広の墓碑」を建立しています。
この平塚定二郎という人物が誰かと言いますと、平塚らいてうの父親でした。
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年〈明治19年〉2月10日 – 1971年〈昭和46年〉5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名は平塚 明(ひらつか はる)。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現日本女子大学)家政学部卒[1]、2005年(平成17年)に同大学は平塚らいてう賞を創設した[2]。
平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった[3]。しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」を創刊した際、その創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[1]。
なお、氏名表記は、漢字で「平塚 雷鳥」と書く場合もあり、さらに「平塚 明子(らいてう)」の表記で評論の俎上に上がることもある[4]。また、1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自らの名が広く知られると[注釈 1]、本名の「平塚 明(はる)」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。
引用元:平塚らいてう Wikipedia
平塚らいてうはフェミニストの先駆けとなった人物で、「女性は、太陽であった」という言葉を残しています。太陽=コロナですか、何か関係がありそうな気もしなくもないですが。
更に、平塚らいてうは平塚為広の子孫で、紀州藩に仕えたとあります。
父・平塚定二郎 – 元紀州藩士で、東京外語学校に学び、参事院書記官となる。1886年に会計検査院に移り、翌年より1年半にわたり欧米視察。のちに第一高等学校のドイツ語講師を兼任。[16]
引用元:平塚らいてう Wikipedia
また、平塚らいてうは玄米食を実践してきたとあります。なんだかワクチン反対派にいるマクロビとか、オーガニックを勧める人たちに共通するような・・・。
しかも、平塚正幸は砂糖を嫌っていたと記憶しております。現に本人もブログで言及していますね。平塚らいてうの子孫だからそれに倣った食事をしているのでしょうか。ずいぶんと律儀ですねw。平塚正幸(さゆふらっとまうんど)は平塚らいてうと平塚常次郎の親戚で、戦国武将平塚為広の子孫ということです。
ごはんは一日1~2合くらい食べます。
「今日のさゆごはん」という記事も過去に2つほど書いたのですが、毎回今回の写真のような感じで変化が、具と味が変わるくらいで微妙なのでw アップしていませんでした。
ドレッシングは自分で作っています。
材料は以下です。しょうゆ酢ごま油菜種油エゴマ油
これらを潰した「にんにく」「生姜」と一緒にシェイクするだけです。
私が使っているものを公開してみました。ドレッシングは気分で、オリーブオイルに変えたりとか、他の薬味(生姜、シソ、ゴマ、アーモンド、カシューナッツ)、梅酢、味噌などを入れたり、誰も試したことがないだろう物を入れたり、アレンジします。
これら調味料すべてに意味と目的がありますが、ここでは長くなるので言いません。
あと、肉、魚も週に1.2度は、食べますのでベジタリアンではありません。
玄米も食べます。週に1,2度でしょうか。
らーめん(無化調)とか、たまには「うまい棒プレミアム」とか「八橋」とかも食べますよ。w基本的に「砂糖」と「酒」は避けています。たまに飲みますが控えています。今後2次会でも控えます。
引用元:さゆふらっとまうんどさんは、何を食べてるんですか? ~「今日のさゆごはん vol.3」
砂糖を嫌っている内海聡、アキラボーイズとも繋がっている可能性がありますね・・・。
紀州といえば、和歌山県でした。
紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。
引用元:紀州藩 Wikipedia
で、この和歌山県出身が誰かと申しますと、以下の連中でしたね。
竹中平蔵、二階俊博。悪名高い2人です。
竹中平蔵さんは和歌山県和歌山市の小松原通りにある商店街で営業している小さな履物小売商の次男として、誕生しました。実家は近所では比較的裕福な家庭とされていて、実兄の竹中宣雄はミサワホーム社長をつとめています。
引用元:竹中平蔵のプロフィール経歴や家族を調査!年収がヤバい!
生い立ち
1939年2月、和歌山県御坊市新町に生まれる[4]。父親の俊太郎は和歌山県議会議員だった[4]。父は仕事が忙しかったため、二階は物心がついたころから父と一緒に遊んだ経験がなかった[4]。母・菊枝は医師古久保良輔の娘で、当時まだ珍しかった女性医師だった[4]。稲原小学校に入学し、終戦後、御坊小学校に転入した[4]。御坊中学校[4]、和歌山県立日高高等学校に入学[4]。高校の3年生に進級してまもなく生徒会長選挙が行なわれることになり、応援団長をつとめた二階は応援団員、野球部員から立候補を勧められた[5]。あまり乗り気ではなかったが、やむなく立候補した[5]。投票の結果、二階は圧倒的勝利をおさめた[5]。
1957年、中央大学法学部政治学科に入学する[5]。「企業に入ってサラリーマンになろう。大学はどこでもいい。」と考えていた二階が東京の中央大学に進学した理由は、新聞部顧問・津本誠一郎教諭の「できれば東京にいったほうがいい。政治家や文学者、経済人などいろんな人にあえる。講演も聞ける。」という発言に影響されたことや、父親が中央大学で学んだ経験があったためである[5]。大学で最も衝撃的だったエピソードとして、大衆文化に関する授業を受けていた樺俊雄の娘である樺美智子が安保闘争のデモで圧死したことをあげている[6]。
引用元:二階俊博 Wikipedia
平塚らいてうの先祖が紀州藩の家臣だったということは、平塚らいてうの子孫が平塚正幸だったとしたら、前述の竹中平蔵と二階俊博とも繋がている可能性が考えれます。
現に、私が平塚正幸が竹中平蔵をフォローしているとツイートしたら、平塚の工作員がムキになって反論してきた挙句、ブロックされました。
ただフォローしているだけなのに、なぜブロックまでするのか理解不能です。となると、平塚正幸は竹中平蔵と繋がっている可能性が考えられます。
他の方も平塚正幸(さゆふらっとまうんど)が竹中平蔵フォローをしていることをツイートしています。
平塚正幸=さゆふらっとまうんどは自らを幸福の科学信者と強調していましたが、創価学会の信者の可能性が考えられます。
この平塚正幸ですが、ワクチンに反対し、マスクはいらない、反コロナ、コロナはただの風邪を主張しておりますが、行く先々でトラブルを起こし、警察沙汰になっています。
前述の平塚常次郎が河野一郎と繋がっていましたから、平塚正幸も河野太郎と繋がっている可能性あります。
つまり、こういうことなのでしょう。平塚正幸はワクチンを反対する人たちがキ〇ガイで、変な宗教にはまった人とレッテル貼りをするために工作をしている工作員の可能性が考えられます。
現に、字幕大王という人が平塚を批判しておりました。長文になりますので、リンクだけ貼っておきます。
この字幕大王という人は、もともとは平塚正幸の支援者でしたが、平塚正幸の素行を見て、疑問を呈し、忠告したそうですが、本人は無視したそうです。
となると、平塚正幸が竹中平蔵直属の反コロナ、ワクチン反対派を内部から破壊するための工作員である可能性は非常に高いというわけです。
また、私は以前にこんな記事を書かせてもらいました。
さゆふらっとまうんど(国民主権党 平塚正幸)は麻生太郎と繋がっている
インフルエンサー医師はフォロワーを買ってネット工作をしている
上の二つは、平塚正幸が麻生太郎と繋がっている可能性があるということ、もう一つは平塚正幸が河野太郎と繋がっている可能性があるということです。
また、平塚正幸が竹中平蔵と繋がっているとう記事を投稿したこともあります。
国民主権党平塚正幸は竹中平蔵と繋がっている。(都知事選は出来レース)
どうみても繋がりすぎだと思うのは、気のせいでしょうか。
前述のゴムニダことイチベエの件と言い、平塚正幸の件と言い。
この話は次回に続きます。
【創価の手先】立花孝志がコロナに感染 「コロナは風邪」と主張するさゆふらっとまうんどに対抗か?